「壊れたい20代」と「達観する60代」に挟まれて、私が家で考え込んだこと。

雑記

先日、少し不思議な組み合わせの飲み会があった。 20代前半の若者と、60代手前のおじさん。世代も生きているフェーズも全く違う2人に挟まれて、酒を飲む機会があったのだ。

年の離れた若者と何を話せばいいのか分からず、事前にAIに相談して、バイトや就職の話題がいいなんて仕込んで臨んだのだが、蓋を開けてみれば、そんな小手先のトークテーマなど必要ないほど、濃い本音が飛び交う夜になった。

20代の若者の一人が、目をぎらつかせながらこう言った。 「僕はがむしゃらに働きたいんです。壊れるくらい働いて、周りに認められたい。幼い頃の劣等感を跳ね返したいから、ぬるま湯にいる同級生が子供に見えて話が合わないんです」

一方で、人生の酸いも甘いも噛み分けた60代のおじさんは、静かにこう語る。 「人間、お金と、やりたいことと、健康。この3つが揃っていなかったら、生きている意味なんてないよ」

どちらも、自分の人生に対して嘘がない、光り輝くいい男たちだった。彼らの剥き出しの言葉は、酒席の心地よい雑音を通り抜けて、私の胸の奥にまっすぐ突き刺さってきた。

そして帰り道、一人になってから悶々と考え込んでしまった。 「じゃあ、私は何なんだろうか」と。

仕事に関しては、自分が能力を発揮し、提案し、目論見通りに実行できたという達成感を、これまで何度か味わってきた。ありがたいことに、少しずつお金のゆとりもできてきた。だからこそ、今はどこかやりきった満足感のなかにいて、かつてのような爆発的なやりがいは感じにくくなっている。「なくはないけれど、これじゃない」ような、不思議な凪(なぎ)の中にいる。

一方で、健康はどうだろう。おじさんの言う通り、健康は大事だ。しかし現実は、最近あちこち足腰が痛み出し、ほくろが増え、シミが増え、かつての若々しさが失われつつあるのを実感せざるを得ない。与えられたこの身体でやっていくしかないのだ。

では、私がやりたいことは何だろう? 時間があったとして、健康があったとして、私は一体何がやりたいのだろうか。

気がつけば、結婚して子供が生まれてからというもの、私の時間のほとんどは家族のためにあった。3人の子供たちはそれぞれに課題を抱え、いわゆる普通のコースを歩んでいるわけではない。必ずしも普通が良いわけではないと理解をしつつも、親としてもっと何かを与えられたのではないか、私の育て方はどうだったのだろうかという尽きない葛藤は、今も常に胸のどこかにある。

でも、ふと思ったのだ。 私は家族のために時間を使っているから、自分の好きなことができないと、どこかで家族を言い訳にして、守りに入っていたのではないかと。居心地のいい家にいたいだけだったんじゃないかと。 新しいことに挑戦して失敗することや、自分の空っぽさに直面するのが怖くて、家族がいるから家を出ないだけの自分を正当化していなかっただろうか。

仕事もプライベートも、どこかパッとしない。あの夜に出会った2人のような、極端で鮮烈な生き方とは違う世界に私はいる。

けれど、あの一晩中悶々と考え抜いて、自分の内側から湧き上がってきたのは、諦めではなく静かなエネルギーだった。俺は、これで終わりたくない。

家族をないがしろにしたいわけですらない。むしろ、これまで家族と真摯に向き合ってきたからこそ、人生の次のフェーズでは、もう一度、自分の足で新しい何かを動かしてみたい。誰かのためや組織のためだけではなく、自分の意志で何かを掴み取りたいという火種が、まだ消えずに残っていることに気づかされたのだ。

答えはまだ出ていない。何ができるかもわからない。 それでも、あの変な飲み会は、私の退屈な日常の蓋をこじ開けてくれた。

足腰の痛みを少しケアしつつ、さて、私はここから何を始めようか。そんなことを考えながら、まずは明日も、家族のいる温かい我が家での日常を丁寧に送ろうと思う。変な飲み会でも、行ってみるものである。

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